被爆80年・今こそ体験者の声に耳を傾ける

 今年の原水爆禁止世界大会は被爆80年であり、広島・長崎の両方で本大会として開催されました。世界大会全体では、のべ1万2930人の参加がありました。 全厚労からは全体総会で64名。オンラインでは6名が参加しました。被爆体験者の生の声を聞く機会は年々貴重になっています。

 

 

体験をお話くださる田中熙巳さん

 

 大会当日は、天候に全く恵まれず、交通機関の遅延などありましたが、60名を越える全厚労の参加者が長崎に集まりました。

 総会では、広島と長崎の原爆の違いや概要、被爆者運動の歴史が説明され、実際に被爆体験をされた方の証言を聞く事が出来ました。

 田中熙巳さんは、原爆投下後の4日間について語られました。伯母が大火傷し亡くなられたこと、真っ黒な子供が学校の壁に貼り付いて焼け焦げ、川に何十何百と浮かんでいてみるも耐えられない辛い気持ちだったなど、当時の様子を話して下さいました。

海外参加者からも平和の訴えがありました

 

 被爆80年を迎えた今でも原爆手帳の交付が拒まれる方もいて、原爆症認定までに数十年闘ったエピソードなども聞く事が出来ました。

 悲劇を目の当たりにして心を閉ざし、ようやく戦争体験を語り始めた方もいます。被爆された方々の平均年齢は86歳、生の声を聞けるのもあと少しです。いかに後生に伝え、この悲劇を繰り返さないように行動していくかの大切さを再確認した集会でした。(平和担当 中野 綾)

初めての世界大会に参加して

 

 

熱心に耳を傾ける聴衆たち

 

 私は、第1分科会「核兵器禁止条約に参加する日本を~非核日本キャンペーン被爆者の証言を聞いて思ったこと。被爆したのにも関わらず、被爆者として認定されない人々がいることに驚きました。

 被爆当時10歳だった山本さんの将来の夢が、早く大人になってお国のために命を捧げたいと思っていたと聞き、時代背景を考慮しつつも私は胸が締め付けられる思いがしました。内部被爆し、脱毛したり歯茎から出血したりしているのに国は被爆認定せず、いまだに認定されていない人々がたくさんいます。被爆者と認定されるよう署名や要請活動をされているとのことでした。

 海外からも代表発言があり、スペイン、フランスから現地での非核運動について話されていました。また、江戸川原水協や北海道、徳島からも報告があり、活発な討論がありました。

 今回初めて原水禁世界大会に参加しましたが、被爆者の証言には本当に悲しく胸が痛みました。分科会では核を持たない運動が世界中に広がっていること、また唯一の被爆国日本なのに禁止条約に参加していない現状を知ることが出来ました。

 徳島にも原水協の会があり署名活動等を行っているので積極的に参加したいと思いました。わたしたちは日々何気なく生活していますが平和であってこそ、平和でなければこの生活は一変してしまいます。仕事も好きなことも出来ません。労働組合であるわたしたちは平和の運動を継続し、戦争を知らないわたしたちが学習し、次世代にバトンを渡していかなければならないと思います。 ( 女性委員長 楠 潔代)

 

軍艦島上陸クルーズは中止

 8月7~9日の大会期間中は大雨の影響で、天候が大いに荒れて空の便に遅延があり大会に間に合わないなど心配が続きました。8月9日の折り鶴奉納は、特に大雨で被爆地公園が浸水している中、全国の皆さんの想いのこもった折鶴タぺストリーを奉納することが出来ました。しかし、午後からの独自企画の軍艦島上陸クルーズは運航会社から中止の決定があり、参加予定者は残念がっていました。前回のナガサキ大会も台風の影響で大変だったらしいですが、事故なく終えること被爆直後の状況に絶句しました ができたのがなによりでした。