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◆ 2014.07.29

今も3年前のまま 区域で分断された町
 ~被災地視察ルポ~


第37回女性集会2日目に行った被災地視察の様子を紹介します。

 広野ICに近づくにつれ、東電広野火力発電所が見られました。広野町は、2011年8月に政府が「緊急時避難準備区域」に指定、12年4月、避難指示が解除され町民の帰宅を促したが、人口の2割ほどしか戻っていない現状だそうです。
 除染作業員の募集は、20~70歳までで、人が足りていないが、活躍中という表示で募集をしています。これから猛暑の中の作業となり、当然、防護服を着ながらキツイことが予想され、益々作業効率は低下。結果、作業スケジュールは遅れ、復興への道のりはほど遠いと感じられます。
 避難した若者の家庭は、子供の将来のことを考えると、たとえ自宅があったとしても、学校のない地域には戻ってこないと言われています。国道沿いにある旅館は、今は、原発作業員の宿舎となっています(写真①)。

楢葉町に入る「除染の町」
 本来は田んぼとして機能する土地が、除染廃棄物の仮置き場として活用されていて、町内の至るところに、フレコンバックが山積みとされているのが見られました。最初の頃の仮置き場のカバーは、3年間放置しており、劣化の恐れは十分に考えられるとのことでした。また、この放射能汚染物が置かれている奥には、民家があります(②)。


 
富岡町へ入る「東電第二原発立地町」
 道中、作業員の方々を見かけました。廃棄物の近くでふつうに会話をしていることに驚きました(③)。初めてのコンビニを見つけましたが、閑散としており、とても機能するとは考えられません。ガソリンスタンドなどはあいてますが、作業員用であり、生活者用ではありません。
 富岡町へ入り、富岡駅を目指すと、一変する風景に驚きを感じました。ガイドさんの線量計では、0.2325マイクロシーベルト。事故前は、0.04マイクロシーベルトであったとのこと。崩壊している手つかずの建物があちこちに見られました。

富岡町で降り、車外へ。「富岡駅周囲」
 バスを降りて、富岡駅まで数百mほど歩くと、その間も被災の跡を目の当たりにしました。横転したままの車もありました(④)。また震災時の時に止まったままの時計も(⑤)。線路上には草が生い茂り、ホームであった一角に慰霊碑が建立されていました(⑥)。慰霊碑を建てた理由の一つに、マナーを守らず、駅や駅の奥の海沿いなどへ侵入し、記念撮影などする外部の人たちがいて、そのような人たちにも、この場所は津波で亡くなった人たちがいる場所であること再認識してもらうためでもあると説明がありました。駅周辺には壊れたままの家があちこちにありました(⑦)。

富岡駅周辺の新築分譲地
 駅を後にして、バスへ乗り込み、富岡駅周辺の新築分譲地区を見学しました。一見、建物自体は活用できそうなものもあるが、家があっても人が帰って来れるのかどうか。生活は避難所で過ごすしかない状況です。
 津波のガレキ置き場も震災からほぼそのままの状況が続いており(⑧)、津波で被害にあった建物は、ほとんど新築でローンなどの問題がうかがえます(⑨)。
 
富岡町の帰還困難区域
 同じ町でも、道路の片側を境に、バリケードを設置された区域があり、その境目をバスで通過しました(⑩)。町は三分割されていて、「帰宅困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」に分かれています。それにより、補償の金額も変わっており、それが町民同士のコミュニケーションの障害や軋轢となっています。
 途中、線量計は、0.69マイクロシーベルトを示していました。バスの外は、もっと高いことが予想されます。

 視察の最後に、ガイドの金井さんからは「宿泊したホテル(スパリゾートハワイアンズ)と見学地域はさほど遠くない。それでも、復興している町とそうでない町との差は歴然であることがわかっていただけたと思う。自分も本来住んでいたであろう制限区域に足を運んでも、気が重くなることを実感する。本来は住みたいのにもかかわらず。支援物資やアパートなどの物理的なものは潤ってきたと感じるが、地域のコミュニティーのない状態は変わりなく、3年経過しても依然、心が潤っていない状態が継続している。今後は、中間貯蔵施設建設のスケジュールについて話し合うこととなる。国は一方的な説明しかせず、それについては怒りを覚える。ただし、いつかは折り合いをつけなければいけないとも思っているし、分かっている。それにより、補償の金額も変わっており、それが町民同士のコミュニケーションの障害となっている」と現状の困難さを話されました。




     
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